カチリ

この前(確かクリスマス辺り)書いた五題噺を掲載。
字数は五千弱。お題は以下の通り。
「雪」「佐藤さん」「ホッチキスの針」「キンチョール」「眼鏡破損」

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『カチリ』

 佐藤さんがこのマンションの隣に引っ越してきてから、もう三日になる。
 もしかしたら斉藤さんだったかもしれないし、加藤さんだったかもしれない。引越しのあいさつに来た時に言っていたはずだが、思い出せない。表札が付いていないから確認のしようもない。丁寧なことに、実家で取れたという梨を持ってきてくれたことは覚えているのだが。
 佐藤さん(仮名)については瑣末なことだ。彼女が誰であろうかなんてことは関係ない。とにかく今は快楽に身を委ねるのみだ。
 甘噛みをするように、優しく乳房に手をかける。今まで触れたことの無い感触。何とも表現できない興奮が体中を突き抜けていく。そしてその起伏の天頂にある乳首を抓れば、この上ない悦楽を感じる。ああ、この白い体に僕のものをうち込むなんて、何だかとても恐ろしいことのような気もする。
 そんな僕の周りを一匹の蠅が舞った。この上ない愉悦に浸っていた思考が現実に引き戻される。全く不愉快だった。ああ、何故蠅というのはこの世に存在しているのか。しかもこんな雪の降るような寒い日に。嘆かざるを得ない。僕はベッドの傍に置いていたキンチョールを手に取り、その殺虫液を散布する。キンチョールは蠅だろうが蚊だろうが殺しつくしてくれる頼もしい奴だ。人間だってこれを浴びたら怯まざるを得ない。
 蠅はしばらくキンチョールの魔の手から逃れようともがいていたが、それも空しく地面にひっくり返った。それでも手足を動かす蠅に、僕はすかさず近くにあったバールを振り下ろした。蠅は体液を撒き散らしてあっけなく死んだ。
 これで行為に没頭できる。そう思ったとき、玄関のチャイムが鳴った。間の悪いことだ。無視しようか。しかしそれによって、後でさらに悪いタイミングで訪ねてくることもあり得る。結局僕は部屋のドアを閉め、渋々訪問者の応対に向かった。
「宅急便です」
 そこで思いだした。アマゾンで注文をしていたのだった。玄関の扉を開け、判子を押して宅配物を受け取る。そのとき宅配員が家の中を見て怪訝な顔をした。ああそうだ。この前玄関で眼鏡を割ったまま、そのままにしていたのだった。後で片づけよう。宅配員は、早く帰りたいと言わんばかりの適当な対応で帰っていった。雪の日にあまり野外で仕事したくない気持ちは良くわかる。それにしても露骨すぎるだろう。そう思うような雑さだった。
 アマゾンのロゴが印刷されているこのダンボールの中には、食料や飲料、そしてホッチキスとその針が入っていた。僕は興奮のあまり思わず箱を破り捨て、中のホッチキスを取り出してしまった。
 ホッチキス! それはただの文房具というにはあまりにも完璧な道具と言えるだろう。人類最高の発明品でもある。そのフォルムには無駄が無く、動作も針をうち込むというその一点に集約されている。針をうち込むときの「カチリ」という音は、どんな音楽にも勝る快楽を与えてくれる。それにあの針の形も洗練されており、もはや芸術的とも言えるだろう。うち込まれ曲げられた姿も、あの銀色と合わさって神々しく思える。
 そもそもホッチキスというのは、アメリカの兵器発明家「B.B.ホッチキス」によって作られた。彼は機関砲の発明でも知られている発明家で、その弾丸送り装置をヒントにホッチキスを発明したらしい。きっとそれゆえにホッチキスはあれほど無駄のない洗練されたフォルムになっており、また破壊衝動をも満たすような感触をもたらしてくれるのだろう。
 とにかくホッチキスは至高の道具なのである。僕はホッチキスにほおずりをする。ずっとこうしていたい気持ちに囚われるが、そういうわけにもいかない。行為の続きをしなければなるまい。
 僕はダンボールを抱え、部屋に戻る。ベッドの上の白い体躯は行為を待ちわびているようにも見えた。僕は愛撫を再開し、どうするのが一番良いのかを探る。下半身はもうできあがっている。
 僕はホッチキスを持った。ダンボールに入っているものではない、古いものをだ。使いすぎたせいか大分歯が立たなくなっているが、まだ使える。物を大事にするのは大事だから、本当に使えなくなるまでは使うべきだろう。
 僕は乳房を見据えて、ホッチキスを構えた。そこにはすでに最高の形が見えている。僕の至高の芸術の形。自然に笑みがこぼれた。これは今までとは違う、最高の芸術作品になる。
 カチリ。
 僕はホッチキスを使った。理想の場所、完全な芸術を形作るための場所に。ぞくぞくと快楽が僕の背筋を上った。これだ。これだからこそ、ホッチキスは至高の道具足り得る。最高だ。ああ、このままもっと。最高の作品を作るために。最高の快楽を得るために。
 僕が悦に浸っていると、再び玄関のベルが鳴った。今日は来客の多い日だ。正直無視したいところだが、さっき考慮したように、また後で来る可能性は捨てきれない。今のうちにその可能性は排除するべきだ。そうした方が最高の作品作りに没頭できる。
 僕は玄関に向かった。遅かれ早かれと人は言うが、僕にとってこれは最大のミスだったと言えるだろう。

* * * * *

 そこで捜査員がみたのは、あまりにも凄惨な光景だった。小説や漫画など虚構の世界でしか存在し得ないような有様。一瞬それがなんなのか、捜査員は理解できなかった。銀色に覆われた人型の何か。それが何なのかは予想がついたはずなのに、わからなかった。
 そこにあったのはすなわち、「ホッチキスの針で覆われた死体」だった。
 死体は三つあった。彼の両親の死体。そしてあと一つは隣に引っ越してきた女性だった。両親の死体は腐食が進んでおり、全身が針で覆われていた。また残りの女性の死体は下半身のみがホッチキスの針で覆われていて、犯人の言によれば「未完成」だった。
 逮捕されたのはその家に住んでいた男だった。三人家族の一人息子。近くの大学に通う大学生。
 聞き込みをしてみれば、誰もが彼をごく普通の学生だったと言う。これといった特徴のない人間。経歴を見ても問題は浮き上がらず、一般的な家庭環境の中、人と変わらない人生を送ってきたと言える。
 そんな中、何が彼を変えてしまったのか。捜査ではついに明らかになることはなかった。彼自身に聞いても、それは全くわからず、その手がかりすら手に入れることはできなかった。
 彼がどうしてこのような事件を起こしたのか。彼は動機について次のように語っている。

* * * * *

 あなたは何のために生きていますか? 僕は、少なくとも今までは、何のためにも生きていませんでした。ただ誰かに言われるままに進んで、大学生になりました。自由は与えられていましたが、そのための選択肢は実に少なく、またそれを選ぶだけの自我は備わっていませんでした。つまり僕はただの人形だったのです。ロボットだったのです。しかし僕はいつの間にか自我というものを持っていました。それは今まで生きてきた道を考えさせ、今から生きてゆく意味を惑わせるものでした。
 僕は生きる意味を考えるようになりました。そして僕に誰かとの差異、つまり特徴がないのならば、生きる意味なんて無いのではないか。そう考えるようになりました。特徴が無いのなら、それはいくらでも代替が可能ということなのですから。
 そうなってから、何度も自殺を考えました。家から出てマンションの縁から下を見ると、飛び降りたくなる衝動が僕を襲いました。包丁を見れば腹をかき切りたくなりました。ベッドの中では自分の首を絞めあげたくなりました。夢の中で、いつしか僕は僕を殺さないことがなくなりました。しかし転機というものは、いつか訪れるものです。
 その日、僕は大学のレポートを仕上げていました。ただの惰性で書き上げたものでした。表面上以上の意味は存在しない、そういうものでした。大概のレポートはそういうものでしょう。けれども、僕はその壁を打ち破ることができず、また手を抜いても抜ききることができませんでした。天才になれず、また堕落もしきれない、普通の学生だったからです。僕はその原稿を印刷して、そして最後にホッチキスでその角を留めたのです。
 そのとき、カチリという音がしました。それはただの音ではありませんでした。僕の中で何かが噛み合った音だったのです。僕は僕の特徴、独自性を示す行動を思いついたのです。
 僕はまず母を殺しました。非常に衝動的に。たまたま何かに使ったバールが近くにあり、それを使って後ろから殴りました。そのとき、罪悪感はあまり感じませんでした。むしろ自分の存在意義を全うできるという悦びに打ち震えていました。僕は自室に母を運び込み、寝かしました。そしてホッチキスを取り出してきて、作業を始めました。
 初めての作業は順調とは行きませんでしたが、僕は今まで感じたことの無い使命感、そして快感に呑まれました。お前はこのために生まれてきたんだ。そう神様に言われたようでした。
 そして作業が終わる前、父が帰ってきました。殺さざるを得ませんでした。それは僕の中の衝動からであり、またバレるわけにはいかないという理性からでありました。父はあまりにもあっけなく死に、僕は父を母の横に寝かせました。
 僕はそのまま作品を作る作業に没頭しました。途中でホッチキスが壊れて、買いに行くことになりました。その時はそのまま買いに行くしかありませんでしたが、できればその時間を作品作りに充てたいと考えました。それから、インターネットでホッチキスを買うようにしました。結局はあまり役に立ちませんでしたが。
 作り始めて数日――時間を忘れるほど没頭していました――、やっと僕は作品を完成させました。しかし父も母も、僕の考えていた芸術とは何かが決定的に違いました。僕の存在意義足り得ませんでした。これでは芸術家でなく、ただの猟奇殺人者です。僕は新たな作品を作るための素体を探しましたが、なかなか殺人には踏み切れませんでした。その理由は、まず良い対象が見つからなかったこと。そして殺人するにもリスクがあると認識する理性があったことによります。
 そんなある日、隣人が引っ越してきました。彼女は綺麗な雪のような白い肌を持っていました。そしてその内面も美しく、お人好しにも僕を心配してくれたのでした。結局その人の良さが彼女を殺すこととなったのですが。
 初めて会ったときにも、僕は彼女を殺そうと思いましたが、準備が無かったこともあり、また内面を見てもいなかったので殺すまでには至りませんでした。しかし二度目、彼女が心配してやってきたとき、僕はこの上ない悦びと共に彼女を殺すことを決意しました。これはチャンスだ。神様が与えてくれた幸運なのだ、と。
 僕は彼女を玄関に待たせてバールを取りに戻りました。そして取ってくると、彼女に居間に上がるように言いました。口実は忘れましたが、彼女は心配してやってきたと言っていたので、苦労はしませんでした。
 彼女が靴を脱ごうと頭を下げた瞬間、僕はバールを振り下ろしました。彼女はそのまま崩れ落ち、眼鏡を割りました。ゆっくりと血の気が引いていくのが見えて、僕は彼女が死んだことを確信しました。倒れた彼女の肌は雪よりも白く変わっていって、僕はそれに今までに感じたことのない快楽を感じました。これを仕上げることができれば、僕の存在意義は達成できる。僕の生きている意味はこれだったのだ。そう思ったのです。

* * * * *

 彼は年が変わる前に、留置場内で自殺した。今になって罪悪感が芽生えたのか、それとも自らの願望が達成できないことを嘆いたのか、それとも他の理由があったのか、それはわからない。しかし彼がただ、日常という薄暗い闇の中で、悩み苦しんでいたことは確かだろう。ゆえにこそ、彼にしかできないやり方――それは最低なやり方だったが――で、それを表現しようとしたのだろう。

 カチリ。
 カチリ。

 ホッチキスの音が響いた。雪はまだ降りやまず、いたずらに視界をぼかしていた。<了>


※ホッチキスの歴史については日立システムアンドサービスの「百科事典マイペディア 電子辞書版」を参考にした。但しこれはWikipediaなどによると都市伝説であるらしい。