小説における視点

 最近、視点というものについて全く考えてないんだろうなあ、と思う文章のラノベに連続で出会ったので書いてみる(適当)。問題はそういうラノベがアニメ化したり、賞取ったりしているところな気もするが、まあとりあえず。

 まず小説における視点は、大きく分けて二種類あると思う。すなわち、一人称視点と三人称視点である。一応二人称視点というのも無いわけではないが、あまり一般的ではないので除外する。

一人称視点の例:「俺は空を見上げた。どんよりとした雲が広がっていて、もうすぐ雨になることは火を見るよりも明らかだった」
三人称視点の例:「太郎は空を見上げた。どんよりとした雲が広がっていて、もうすぐ雨になることは火を見るよりも明らかだった」

 というように、地の文が一人称で進行するか、三人称で進行するかによって分けられる。そして当然、読み手の理解も変わる。
 基本的に一人称の場合は、その主体となる人物が感じたこと以外は描写されない。描写してしまうと、その人物がエスパーになりかねないからだ。
 対して三人称の場合は、一応どのようなことでも描写可能である。一応と前置きしたのは、そこが今回の問題になるからである。
 三人称視点は、映画のようにカメラを通したような視点で描写していくことができる。いわゆる神視点である。しかし実際には文章で描写するので、必ず主体というものが存在する。
 たとえば上の例で言うと、「火を見るより明らか」と思ったのは太郎である。また世間一般的な認識でもあるかもしれない。しかし雨というものを知らない宇宙人でないことは、前半の「太郎は〜」の文章を除いても明らかである。
 つまりここで言いたいのは、映像とは違って、必ず誰かの主観が介在するということだ。たとえ常識であってもそれが通用する範囲は限られるわけであり、事実だけを描写するのは不可能であるということでもある。
 この認識が欠落していると、非常に分かりづらい文章が出来上がってしまう可能性がある。前述の例の後に、次のような文章があったとすればどうだろう。

「棚の上には花瓶が置かれている。少ししか水が入っていないな。次郎はすぐに水を汲みに行った」

 水の量について言及したのは誰なのか。断言するのはこの文章だけではできないだろう。
 この例は極端に見えるかもしれないが、これとほぼ同じことをしているものに出会ってしまったので、こんなことを書いているわけである。
 とにかく、三人称であっても視点の一貫性を保つことは重要であるということだ。視点移動する場合は、明示的にし、かつ多用しないことが分かりやすい文章への近道であろう。